梅田望夫さんのブログで絶賛されていた『日本語が亡びるとき - 英語の世紀の中で』がようやくシンガポール紀伊国屋に届いていたので読みました。
キャッチーなタイトルから連想される予想とは裏腹に著者の主張は「日本文学を守ろう」なのですが、日本文学をまともに読んだこともない私はこの主張に対するコメントはあまりないので、本書の別の箇所に関する考察を行います。
著者の水村さんによる言語の分類は以下の通り。
現地語:ある地域で日常使われている言葉。 その土地の人々の母語の体系。 いずれ文字を獲得するとしても、基本は話し言葉。
普遍語:聖典など普遍的な叡智(えいち)を伝える、文字による言葉。 中世までのヨーロッパでは古典文学や聖書を読むためにギリシャ語とラテン語を習い、アジアでは漢語を用い、人々は叡智を共有した。
国語:グーテンベルグの印刷革命により普遍語の書物が普及し、叡智を求めるものは普遍語を現地語に翻訳し、話し言葉でしかなかった現地語が書き言葉として整備される。 小国が乱立していた地域がある程度まで統一され、域内の言語が一つにまとまり、国民国家が成立する過程で、「現地語」が「国語」に昇格した。
そして、20世紀にアメリカの繁栄の時代が到来し、資本主義の下、物・金・人が自由に世界を動くようになり、20世紀末期に起ったインターネット革命で情報が瞬時に世界中に伝わる時代になった現代、英語が急速に「普遍語」としての地位を固めている、という現状認識には全く同感です。
ここからは、私が日々考えていたことに、この本が示唆を与えてくれた点です。
1. 英語のひとり勝ちは続く
ジム・ロジャースが娘の北京語習得のためにシンガポールに移住してきたことや(→『シンガポールで北京語?』、ただしシンガポールは決して現地語 = 北京語ではないが)、中国に移住していった友人たちから強く北京語を学ぶことを勧められたこともあり、ここ数ヶ月、真剣に北京語マスターを目指すべきか考えていました。
この本を読んでクリアになったのは、やはり「普遍語」としての英語のひとり勝ちは、たとえ中国のGDPがアメリカを抜いたとしても続く、ということです。 理由は、英語が現在の地位を勝ち得たのはインターネットという知の集積が起り始めた時代に「たまたま」世界で最も多くの「知識人」に話されている言語であったから。
言語はネットワーク外部性が強く働く性質を持っており(100人しか知らない言語で発信しても100人にしか届かないが、1億人が話す言語で発信すれば1億人に届く)、インターネットを介し一度英語で集積された知に英語を習得した数億人がアクセスし、英語でコミュニケーションをするようになれば(この中にはもちろん中国人も含まれる)、いくらその後で中国が繁栄したとしても中国語が「普遍語」としての英語の地位を奪うとは考えにくい(つまり、50年後くらいにロシア人とタイ人が中国語で話すような世界は想像できない、やはり英語だと思う)。
これと、「中国でビジネスをするなら北京語」とは全く別の話で、「中国でもビジネスするぞ」というのであれば北京語を習えばいい、と頭の中が整理されました。
この点に関しては実際に中国に行って見て感じてきます。
2点目は明日。
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on
- December 8, 2008 11:38 AM
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