以前も書いたとおり、私は勝間和代さんが結構好きなのですが、最近の活躍は本当にすごいですね・・・ 特に『勝間和代の日本を変えよう』という本を出版されるあたり、本当に日本を変えようとしているんだな、という決意を感じます。 日本を飛び出してしまった身としては何となく申し訳ない気持ちまでしてくる今日この頃。
大変遅ればせながら、勝間さん出演の情熱大陸をYouTubeで見ました。
その中で印象に残ったのが、「10歳離れた姉が(雇用機会均等法の前で)大変就職に苦労しているのを見て、"手に職をつけなければダメだ"と悟った」というくだり。
やはり、何か強く衝撃を与えるきっかけがあってこそ、ああいう行動に結びつくんだな、と。
私がどうやって英語を勉強したかという話は『TOEIC965点までの英語』に書きましたが、なぜ英語を話せるようになろうと決めた理由は「将来就職に有利だから」ではありません。
私が「英語ぺらぺらになる」と決めたのは8歳なので、さすがにそんなことは考えませんでした。
(次のページからの話は、私が結婚式のいわゆる「花嫁の手紙」(笑)で話そうとしたエピソードですが、長過ぎたので大幅省略したところ、あのような中途半端なエピソードになりました、笑。 結婚式にご出席頂いた皆さま、これがフルバージョンです。)
私が生まれて初めて日本国外の地を踏んだのは、小学校2年生の時の家族ハワイ旅行のときです(両親、5歳の弟、祖母の5人)。
今でこそ「日本国48番目の県」くらいに日本語が通じるハワイですが、1980年代前半の当時はオアフ島でもアメリカ人ばっかりでした。 家族の中で英語が話せるのは英語教師や通訳をしていた母のみ。 母の後をあとの4人が金魚のふんのようについていく旅行。
ハワイにいるというのに「水着を着たくない」という母と祖母を残し、父と私と弟はワイキキビーチに繰り出しました。 波とたわむれ楽しく遊んでいる最中、弟が巨大なくらげにお腹(だったか太ももだったか)を噛まれました。
みるみるうちに赤く膨れ上がる5歳のお腹(or 太もも)。
父が慌てて弟を抱え浜辺に戻ったところ、ビーチにいた親切なアメリカ人が何やら話しかけてきます。 どうやら救急センターの場所を教えてくれているらしい。
ところが、父は・・・英語が・・・できない・・・
腫れ上がる傷跡、泣きじゃくる弟、必死にボディーランゲージの父、青い海、白い砂。
私はその当時まで「くらげ」について見たことも聞いたこともなく、もちろん噛まれたこともなかったため、
「英語がわからないと、外国では"くらげ"とやらに噛まれて死んでしまうのか」
と、ボーゼンとその光景を見ながら立ちつくしていました。
ボディーランゲージの成果あり、救急センターで応急措置をしてもらって事なきを得たのですが、この時のイメージ残像は強く頭に焼き付けられ、8歳にして「どうやら日本以外では英語が話せなければ生きていけないらしい。 よし、将来、英語ぺらぺらになる」と決意したのです。
実際、私が勉強を始めたのはみんなと同じ中学の英語義務教育からですが、くらげのきっかけはその後ずっと勉強し続けるのに十分なモチベーションを与えてくれたと思います。
自分の経験から、学齢期の子どもを持つ親は、ガイド付き手取り足取りのツアー旅行に子どもを連れていくよりも、小学生くらいの頃にサマーキャンプかなんかに放り込んでショックを与えた方が効果があったりして・・・と思うのですが、ショックが逆に効きすぎてしまう子どももいるようなので効果のほどは保証致しません・・・
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on
- September 23, 2008 7:21 PM
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